(平成23年3月)

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平成23年度

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  今の日本が混沌としてただ凋落の道を転がり落ちていく嘆かわしい状態からいつまでも立ち直れないのは、偏に政治家の質が悪いからであって、経済環境の悪化のせいではない。
国を治める者は、自分が賢いから為った等と思い「かしこぶらず」に、賢い者を見い出して登用しその任に当たらせることだ。と「列子」に書いてある。現状は衆愚民主主義の成れの果てである。曰く「最小不幸社会の実現」「福祉の推進により経済を立て直し、雇用の増大を図る」等と全く夢も無く意味不明な事を得意げに言われては、日本は最悪の指導者を選んでしまったと思わざるを得ないのだ。自らを「愚者」と思わない者は真の「愚者」であろう。この人間が名政治家として歴史に名を留めることまで夢想してか、出来るだけの延命を女房殿の援護までうけながら図っているのは最悪の最低である。それも「国家国民の為」と賜っているのだから始末が悪い。また一方では持ち逃げしたと言われる十何億もの国民の税金である「政党助成金」を少しづつばら撒いては子分を増やして、この心まで売り飛ばしてしまった子分どもを使って混乱をさらに混乱させている現状には、もはや義も理もない嘆かわしい最悪の状態である。
「狗猪もその余りを食らわず」(人の道を外した人間の食べ残しは犬も豚も食わない)と漢書にあるが、これに貪りついているのは心まで狗猪にも劣る嘆かわしい政治家達であるが、これでも国民は何一つ不平も言わないのは何故だ。亡国の政治家は独裁政治家にも劣らないほど国家国民を毀損しているのに、自由も民主主義もあるはずなのに何故何も出来ず一緒に転がり落ちているのか歯がゆい限りである。平和呆けしてしまって魂まで無くしてしまったに違いない。

(平成23年2月)

国を治むるの難きは、賢を知るに在りて、自ら賢とするに在らず」


   史記にある言葉で、心のない形ばかりの指導者を「猿が冠を被ったようだ」と蔑んで言った言葉である。中身のないつまらない人物が一旦権力を手にしてしまうと、根が愚かだからとんでもない事になってしまう。
3月一杯は持たないと言われていた菅総理が震災に始まった大惨事に突然蘇ってしまったばかりか、こともあろうに、この大惨事をわが身の生き延びる手立てに利用し始めてしまったのだ。今世論の7、8割が菅総理を否定しているのだが、本人は自分で「いや、良くやっている」と自画自賛する始末だ。
それにつけて思い出すのは、かつての福田首相が「私はあなたとは違うんです」と言ってあっさりと辞めてしまったことがあった。どちらも極端でどちらも国民に対し無責任な行為である。どちらも自分本位でこの大日本国の総理という重い立場を理解していない。元々この類の人間が政治家を目指し総理にまでもなってしまう、我国の政治レベルの低さが原因なのだが。その上悪い事に東工大と東大というともに最高の学歴をもっていることだ。学歴偏重の成れの果てである。
この人達は民間企業の精々部長止まりの格しかないのに一国の総理大臣になってしまうのには驚かされる。まさに「学びて思わざれば則ちくらし」である。戦中戦後の富国強兵、経済中心の教育の中で「心」を養う場が無くなってしまって来た結果である。「心」無くばもはや「人」にあらず、人の「人」たる所以は偏に「心」にあるのだ。「心ここに在らざれば視れども見えず、聴けども聞こえず」である。もっともっと「心」を重視した教育に戻さねば日本は亡びるに違いない、もっとも「金(かね)」にはならない話かもしれないが。

「沐猴(もっこう)にして冠す」


(平成23年4月)

   孔子が政治の難しさを嘆いた言葉で「人民を、政府の政策に従わせることは出来るが、政策を解らせることはなかなか出来ない」と言ったのですが、これを「民には、なるべく知らせないで、従わせればよい」と曲解し、封建的専制政治を表現するのによく使われているが、これは間違った解釈である。現代は選挙によって選ばれた議員達による代理民主政治(間接民主政治)であるから、選挙のときにだけ真剣に、この人ならば任せられると思う人を選んで置きさえすれば、国民は安心して、日常は個々の仕事に勢をを出していればいいのだが、現実は思うような人が選べなかったり、選んだ人が思うように働いてくれなかったりで、毎日の沢山あるニュースと情報に苛立ったり、良くなるどころかどんどん悪くなる現況に腹が立ったりで、日常の仕事にさえ支障を来たしているのが現実である。政治家を目指す人材が不足しているのと、国家国民の為より自分の懐を暖めることに専念するような、志の貧しい人間が多いことによるのだが。
  人物をつくるには百年掛かることを考えると、選挙制度を考え直すか、国民全員が参加出来る「直接民主政治」をも考えねばなるまい。現在のインターネットの普及を考えると不可能ではないはずだ。現に世論調査等は事項毎にすぐに表示される時代ですから十分可能性があるわけです。一方情報過多の為に混乱が起きているのも事実です。専門家か学者ででもなければ必要ないような細かいデータなどは混乱の素である。この度の原発事故では、特に目に見えない放射能であるだけにその感がする、情報だけ公開すれば責任を回避出来るような感じである。政府の判断が信頼できないから知りたい、知れば知るほど信頼出来ない。このジレンマから抜け出すには、さあ、どうすればいいのか。

民、之に由らしむ可し、之に知らしむ可からず」


(平成23年5月)

   「はれんち」とは、もちろん「恥を恥とも思わない厚顔無恥」のことである。人間の誇りを失った人を蔑んで使うことばである。「破廉恥罪」とは道徳的に非難されるべき犯罪を言い、詐欺、かっぱらい、ペテン、性犯罪等およそ外道の人間が犯す「犯罪」であり、もっとも軽蔑される類のものである。一方の「ぼうじゃくぶじん」はそのままで、「かたわらに人無きが如し」、周りの人間を無視し遣りたい放題やることである。
   先般の「内閣不信任案否決」騒動の顛末は、当に鳩山前首相が菅首相のペテンにかけられた一幕であった。いや鳩山ばかりではなく、民主党の 100人ほどの議員と合わせて殆どのマスコミと国民をペテンにかけてしまったのだから、あの寝ぼけ顔に似合わず恐れ入った悪党振りである。ペテンに掛かる方も間抜けには違いないが、間抜けと悪党では間抜けの方がまだ救いがあるかもしれない。
   それよりも、一発しかない大事な弾を戦略も勝算もなく不用意に使って、これが不発に終わってしまい、大方の期待を反古にしてしまった自民党の谷垣総裁の間抜けさには全く救いがない。こんな状態では自民党にも任せられないと現在の支持率が表わしている。
   その後蘇った「悪菅」は世間体にはばかる様子もなく、その傍若無人(この場合の人とは国民の事である)な振る舞いには騙されるほうが馬鹿なんだとばかりに、ひとかけらの羞恥心も無い言動がこの人間の性悪さを如実に表わしている。被災者の皆さんは今そんな事どうでもいいと怒っているでしょうが、この三ヶ月の彼の行動は目の前の被災者よりも自分の延命の為に策を講じる事に必死になっていて、五年先十年先の未来像に国民の目を向けさせようとしている。だから復興も原発も全く好転しないのが現状である。こんな人間は復興の為にも一日でも早く辞めさせる事が日本にとって最も優先されなければならないのだが、野党も与党の大半も腰抜けで信念がないから、口ばかりで事態は「悪菅」の術策にズルズル引き摺られてしまっている。国会議員は日本の国益のために存在するのであり、議員個人の都合などどうでもいい筈だが、これが逆なのだからなかなか事が進まない。今ほど、我が身と刺し違えるぐらいの決意と勇気ある行動が望まれる時はないと思うのだが。「信なくば立たず」である。最近、経団連の米倉会長が「総理の言動は教育的に具合が悪い」と婉曲 に批判をしているが、国民の大半の人はこのような総理に幻滅と嫌悪を感じないわけにはいかない。

「破廉恥」で「傍若無人」


(平成23年6月)

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   一見無用のように思われる事に実は重要な解決の鍵がある、という意味の「荘子」にある言葉である。人は皆「有用の用」は知りても「無用の用」を知る無きなり。社会がより近代化されると効率化を求められる為に、より早い結果を出さなければならなくなるので、賢いと言われる人ほど目先の有用さに飛付いて、一見無用に見える物には一顧だにしなくなる。その結果上辺ばかりの薄っぺら社会と軽薄な人間ばかりが目に付くことになり、時間を掛けて、より正しい判断がなされなくなってしまう。思想や哲学が軽視され経済効果だけが判断の条件になってしまう、経済や産業界では、これも致し方なしということで時間の掛かる事は大学や学者に頼る事になるが、此処に現代の落とし穴がある。
   一方我らの零細企業においては逆に最先端技術や効率化ばかりには知識、資本、人材、スケール等の障害のために直ぐには入り込めないのが実情である。いくら勉強会に参加したり、ハウツウものを読み漁ったりしても簡単にはいかないし、「生兵法は大怪我のもと」になるのが落ちだろう。長年今の仕事に携わって来たことで誰よりも熟知し限りない程のハウツウを身に付けているいるわけですから、例え時代遅れのローテクでも良く見直してみれば、現代のハイテクの時代にも十分活用できる物があるはずである。つまり持ち腐れしている宝物をもう一度ほこりを払って磨いてみればまだまだ使えるどころか、ハイテクにも対抗できるものがきっとある。そう言った基礎技術の積み重ねや基礎学問を軽視して来た付けが津波災害を大きくし、原発事故を引き起こしたとも言えるのではないかとよく考えてみよう。

「無用の用」


(平成23年7月)

   伯楽のように馬の才能を見極められる人がいて、はじめて千里を走る名馬が育つのだ。ということである。民主党になってなおさら感じられるのが、政治家の質の低下である。かつて経済は一流だが、政治は三流と言われた時代が在ったが、今は経済も三流だが政治はもっと悪くなって五流と後進国並であろうか。人材を選び育てる人間がいないから、立派な政治家が育って来ないのである。
   かつて松下幸之助という経営の神様と言われた人がいた。私費を投じ「松下政経塾」を開設し人材の育成に乗り出した。今の民主党の主だった人材は当にこの塾の卒業生であるから、その限りに於いては松下翁の思いは花開いたと言えるのだろうが、その花が思い通りのものであったかは疑問である。江戸末期にも世の行く末を案じた「吉田松蔭」が「松下村塾」を開き、わが身を捨ててさえ、明治に至る大きな変革を担った人材を育成し近代日本の基礎を造ってくれた事は日本史の中でも最も重要かつ重大な出来事であった。これらの志士の面々に比べると人間の大きさに開きがあり過ぎる感がするのが否めない。もし松下翁が存命であったら何と言うだろうか。国を思う前にまず自分の立身出世を先んじてしまう姿が見えすぎて人の心を打つまでには程遠い。
野田首相の所信表明に出た「正心誠意」はまた幕末の幕臣「勝海舟」の言葉として有名である。「純粋に国を思う正しい心で誠を尽くしさえすれば必ず理解は得られる」と言う事だが、これを実現する裏には「知」「仁」「勇」の「三つの得」を備えていなければ実現は出来ないとも言っている。言葉だけ借りて来ても人の心には響かないだろう。

「世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り」


(平成23年9月)

 「禍(わざわい)を未だ形(あらわ)れざるに消し、危うきを将(まさ)に亡びんとするに救う」 とは蘇軾(そしょく--北宋の文人政治家)が政治家を賞賛した言葉である。「禍が形となって表れないうちに消し去り、危険が身をほろぼさない前に手を講じる」 のが本物の政治家であると言っているのだ。今この時に当たって正に然りである。「百年目」とは「最後の時」が来た事を言うが、千年に一度の災害が来てしまったのだから大変な事である。約1100年前に起こった「貞観(じょうがん)の大地震と大津波」以上の、有史以来最大の「大地震と大津波」が起きてしまったのだから堪らない。東北沿岸はまさに壊滅的状態となり、その惨状はとても信じられない程である。
  しかしこれは「天災」であり、地震帯の上にある日本の宿命ではあったのだが、「歴史は繰り返す」のたとえの如く、歴史に学ばずこれを無視して、安易に目先の繁栄と快楽を求めて来てしまった事への「鉄槌」であったのだ。最近よく使われる流行語に「想定外」があり、やたらと使われこの度も何度も聞かされたが、実に無責任な言葉で責任逃れも甚だしい。過去に有った事は当然「想定内」のことでなければならない筈である。「平時にありて乱を想う」のが指導者の最大の責務である。「備えあれば憂いなし」であるが、何の備えもない菅総理の事後の処理の悪さが不幸の二次災害となって、まさに「最大不幸社会」が実現してしまった。東京電力の原発事故はその中でも最悪であり、その露呈した甘い危機管理体質は「原子力」という危険エネルギーを扱わせる企業の資格なぞ全く無かったのだ。これはこれまでの政治家の責任でもあるが、平和呆けした国民にも危機管理能力が欠如していたことが、災害をより大きくしてしまった事を「猛省」し、今後の国づくりに活かさねば亡くなった2万人以上もの方々が浮かばれまい。
  今真っ先にしなければならないことは「石原慎太郎」を総理にし、谷垣、菅が副総理となり各党派より閣僚を集めて、2年位の期限付きの「危機管理復興内閣」を立ち上げて、国力を結集して解決に当たることが絶対に必要であろう。

禍を未だ形れざるに消し、危うきを将に亡びんとするに救う」


   大きな事を為そうとする者は、個人的感情や怨み事などにこだわっていてはいけない。という意味で「後漢書」にある言葉です。一国の将来を左右する程の大事はまさに之に当たるわけである。
今、TPP問題で国を二分する騒ぎになっているのは、個々の既得権益を守ろうとする者とグローバル社会の中での貿易立国日本の将来を憂うる人間との戦いであり、自分の利害だけに拘っている人間と、これからの大きな国益と将来像を想う人間との争いでもある。とすると「国」に対する基本的概念の認識の違いがあり、構成の基本であるサポートの意向を忘れ、ただ依存に寄り掛かっている部類の人間が如何に多いかがうかがい知れる。戦後抑圧されていた「エゴ」が爆発してバブルで膨れ上がり、その上バラマキ行政に飼い慣らされ今や制御不能の状態に陥っている。
こんな時代に政治家を目指す人間はその事に充分な覚悟が無ければならないのに、当のご本人達がパラサイト人間そのものなのだから始末が悪い。こんな部類の人間に支えられながら尚、国益と将来像を指導しなければならない首相の心情は察して余りあるものがある。
「TPP」どころではない「財政再建」、その為の「増税」に至っては、「行政改革」「議員定数削減」と自らの身を削る話になるから、これらを国民全体で支持していかなくては、議員達だけでは全く進まないのである。「農業改革」「JA問題」「社会保障」など利権が絡んで自主改革が出来ないものについても、国民全体で改革を目指さなければ日本の将来はない。ギリシャ、イタリヤ、スペインと放漫経営国の行く末は明白で対岸の火事では済まされまい。

「大事を挙ぐる者は、小怨を忌まず」


(平成23年11月)

   「詩経」にある言葉で「女のおしゃべりは天下を乱し禍を招く」と言う意味である。古来より「女賢しゅうして、牛売り損なう」とも言われている。一見すれば、女性軽視のようにも見えるが、今に至っても通用しているのは、女性の一面の真理でもあるようである。
鳩山、菅両総理の奥方達は、私がファーストレディよとばかりにしゃしゃり出てしゃべるわ、御亭主のけつは叩くわですぐにマスコミの表舞台で活躍したものでした。当の御本人は落ち着く暇もなく、なんとか女房に怒られないように頑張る積りで、次々軽弾みなパフォーマンスをご披露しては失敗を繰り返し、直ぐ様馬脚を現して、自滅への道を転がり落ちてしまったが、日本国をもその下らない夫婦の巻き添えを食って混乱の極に陥れてしまったことは苦々しくも最近の出来事であった。
これらの最低の反面教師のせいか、それとも野田総理の性格と奥様の思慮の賜物かは未だ定かではないが、今度の総理の姿勢には軽はずみな言動は全く見られず、むしろじれったい程の慎重さと丁寧さが目立っている。かかる鰌(どじょう)のお蔭でこちらも毎日腹も立たずに、少しは落ち着きを取り戻して仕事に打ち込むことが出来ている。仮免中だと公言しながら暴走をし続けた馬鹿総理に比べれば、仮免中は慎重運転に徹している方が安心安全ではある。
しかし今日本は戦後最大の危機的状況下にあるので、いつまでも安全運転でも困るわけで、一刻も早く自信を持って強いリーダーシップを発揮して、この難局からの脱却を図って頂きたい。また思慮深い奥様には本当の内助の功を期待したいものである。それこそが真のファーストレディであろう。

「婦に長舌有るは、維れ(れい)の階」


(平成23年10月)

   良く治まっている国では、君主が撥(ばち)を打てば、臣下はこれに呼応して太鼓が鳴るように一勢に実行する」とは「韓非子」にある言葉だが、また「右手に円を画き、左手に方を画くは、両つながら成す能ず」(右手で円を画き、左手で四角を描こうとしても両方とも上手くいかない)とも言っている。
現代は王朝時代や君主制ではないから、そうは簡単にはいかないのが当たり前だが、議会制民主主義では全てが対立の中で多数派工作をして、上手くいかなければ又調整をしての繰返しをしている内に期限切れとなって廃案となる。これの繰り返しをして何も決まらず、何も進まないのが政治の世界では当たり前になってしまっている。その間政治家はべらぼうに高い歳費を貰い、ボーナスまでも貰って、その上政党助成金までついてきてウハウハ遊んでいられるわけだから「三日やったら止められネー」わけだ。選挙では選んで貰わないと、この「美味い話」もなくなってしまうので、大衆迎合のバラマキだけは怠らない。国民も理性的に判断する人々よりも、貰うほうがいいに決まってると安直に考える民衆のほうが多いと考えるので、かくて安直な「ポピュリズム政治」が横行し、国中の蟻が群がって食い潰しているのでは堪らない、今世界中の民主主義国家が債務超過に陥っている。民主主義の危機である。今この不完全民主主義をどう修正すべきか問われているのだ。
地方政治は首長は全て選挙で選ばれているので、一応主導出来る体制ではあるが議会の承認を得なければならないので、やはり多数派工作が必要では有る。それを大衆を味方にして、やって見せたのが石原知事と橋下知事であった。国民も馬鹿ばかりではない、きちんと筋道をたてて正論を説けば七割の国民は理解する筈である。その手間は省いてはいけない。それが民主主義なのだから。野田総理に欠けているところは、テレビを使って国民に直に訴えていかないところであろう。そこは小泉さんを見習ってもらいたい。 「人心掌握力」もリーダーの必須条件の一つである。

「至治の国、君は撥の如く、臣は鼓の如し」


(平成24年1月)

   大きな徳を持つ人は一つの官職にとどまることはなく、大きな道を求める人は一つの器にとどまることはしない。とは「礼記」にある言葉である。
この度の大阪市長選に大勝した 橋下徹 元大阪府知事が、まさに日本中に衝撃を与え、日本中の職業として政治や社会を食い物にしている連中に冷水を浴びせたであろうことは、明治維新以来の痛快な出来事であった。その名も「大阪維新の会」とは格好いい。どうかこれが「日本維新の会」に拡大していく事を望んで喝采を惜しまないのは、私だけではないはずだ。
知事職を辞して市長選に打って出るのも空前の事だが、暴言とも言われながらも、歯に衣着せぬストレートで恐れを知らないかとも想われる物言い、しかも必ず結果を出していく実行力と人心掌握力は格好良過ぎて、英雄豪傑の芝居を観ているようである。現在の停滞どころか陥落寸前の日本に降って湧いたようなこの英雄に、なんとか日本にもう一度維新を興して救って貰いたいのだが、怠惰を貪っていた政治屋共が、そのご威光のおこぼれに預かろうと、争って群がり寄り添う恥知らずな様子は、現在の日本の姿を象徴していてとても悲しい。松下幸之助もさぞかし草葉の陰で泣いていることだろう。政治家たる者「志無くば立たず」ぐらいは心掛けてもらいたいものである。お前達も日本男児だろう恥を知れ。ところが日本一の破廉恥男「小沢一郎」が「私に考えが似た所が大分あるので今後協力して行きたい」とのたまわったのには呆れ返ってしまった。この男も死ななきゃ解らないのだ。その志には「月とすっぽん」程の違いがあることを。

「大徳は官せず、大道は器ならず」


(平成23年12月)

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